第4章 被災地でのボランティア
団体に所属してから、あれから半年が経ち、すっかり年も越し冬になりました。
半年前は生きる希望もない状態だったのに、今ではすっかり元気になっていました。
ボランティア団体だけでなく、もっと活動していきたい。そのためにはお金が必要だと考え、学校が私立だったため禁止されていたが内緒でバイトも始めたり、地元の友人に誘われ、中学時代テニスをやっていたことから、他校でテニス経験者やテニスを好きな人を集め、テニスサークルを作るなどをしていてアクティブに活動していた。
1人ではやる気もなかった勉強も、試験期間が被ってたメンバーと勉強することで、みんな頭の良い大学を進学したいという周りの流れでやる気が上がり、またお互い教えあったりすることで相乗効果が上がり学力を上げることができました。
仲間や友達ができて、ここまで私に良い影響をもたらすことができました。
自分の良い流れはどんどん右肩上がりでした。
しかし、そのさらに数ヶ月後、私の好調が下がってしまう出来事が起きてしまいました。
それは日本の国民ならほぼ全員知っているだろう、2011年の3月11日に起きた「東日本大震災」だ。
私は友達と友達の家に来ているホームステイの外国人とその外国人の友達の4人でみなとみらいで遊んでいた。
そして、2011年の3.11の14:58、悲劇は起きた。
私はその時に、みなとみらいのテーマパークの観覧車の中にいた。
もちろん、観覧車は止まり周りは大混乱。
ゴンドラがおもちゃのようにブランブランと揺れていた。
私たちも友達と「やばい、、俺ら死ぬのかな、、、、」
「ここで死ぬのは嫌だぁ、、、、」
そして、しばらく経ってからゴンドラが動き出し、
「あぁ~よかった」
そして、ゴンドラを降りると外は大混乱。
人が外にたくさん溢れていて、大騒ぎ。
普段、みなとみらいは閑静な街であるはずなのに、まるで違う街のようでした。
私たちも人混みの中、とりあえず駅に向かいました。
しかし、もちろん電車は全て停まっていました。
友達と話していて、電車が停まっていて今日は帰れないから、ホテルにどこか泊まろう、ということになった。
しかし、ホテルもどこ行っても全て満室。
考えていることはみんな同じだった。
「どうしよう、、帰れない、、、。」
私とその友達が当時住んでいたところは、横浜と言っても青葉区の方なので、みなとみらいからはだいぶ距離がありました。
友達の母親はなんと免許を持っていなく、父親は単身赴任で地方に行ってて車で迎えに来てもらうこともできない。
「仕方ない、歩いて帰ろう」
そう言って、途中休憩もしながら、何時間もかけて歩いて帰りました。
歩きながら、ケータイのテレビを見たら、津波によって今の被災地の街や車が押し流れている様子だった。
街中の人が泣け叫んでいる。
「私たちの家が、、、街が、、、、、、、」
それを見て、私と友達は
「これはひどい、、、、、」
「なぁ、これってどこかのドラマのCGじゃないよな?」
これが現実と思うと涙が出るくらい悲惨な動画でした。
そして、何時間もかけてようやく家に帰ることができました。
家に帰り、テレビをつけるとすべてのチャンネルが被災地にまつわるものばかり。
突然の津波や災害により、家族や親友や大切な人が亡くなり、混乱し泣き出す被災地の人たち。
もし、自分がここに住んでいたらどうなっていたんだろう。
そう思うと震えが止まらなくなった。
SNSで被災地をキーワードに検索をかけると、たくさんのSOSの投稿、津波やそれぞれの地域の避難場所についての最新情報が飛び交っていた。
私にも何かできないだろうか、けど自分はまだ高一で当然、横浜にいるので何もできなかった。
ただ、自分は被災地の悲惨な様子を指をくわえて見てるだけだった。
そして、約一ヶ月後。4月。私は高校2年生になった。
団体でミーティングが行われた。
ミーティングで話しあった結果、夏に被災地である気仙沼に実際に行きインタビューして、フリーペーパーのような記事を作ろうということになった。
そして、高2の夏に私はメンバーの有志15人くらいと団体の顧問だったたくやのお母さんと被災地に行った。
震災が起きてから半年が経つが相変わらずひどい状況だった。
街に来ても、誰も人が1人もいなくゴーストタウンだった。
お店なども看板などあって、昼間にも関わらず誰もいなかった。
また、がれきなどが壊れたままで修理されていなかった。
自分はこれを見て絶句して、何も物を言えなかった。
先輩が「ここにいても仕方ない。とりあえず、目的地の仮設住宅がある方に向かおう。」
「は、、、はい、、、、」
そして、仮設住宅があるところに着いた。
まずは、そこの仮設住宅の一帯をまとめている人と話した。
私は許可をもらって、録音機とメモの用意をした。
「仮説住宅の生活をしてから半年経つけど、まだ慣れていません。特に小さい子供と年配の方が大変なんです。」
「今はこのように1世帯で各々仮設住宅で住んでいますが、前までは小学校の避難所で集団生活をしていたため、大変不安だったり多大なストレスを抱えている状況なんです。」
仮説住宅で生活をすることや、被災によって親や子供が亡くなっている、小さい子供や年配の方は不安になっている。
不自由がありすぎる生活の中で、精神状態が弱まっている。
そして、そのまま私たちは仮設住宅付近で、炊き出しの手伝いをした。
みんな順に列に並んで、それぞれ料理を取りに来てた。
「僕みたいに、東京では好きな時に好きなものを食べていけるのに、被災地では限られたものしか食べることができないのか」
ここでの生活には自由がきくことができないというのを私は改めて肌を感じた。
「僕が思ったより、驚愕な世界だ。。。。。」
そうして、1日目はインタビューや仮設住宅に住んでいる人のお手伝いをして終わった。
翌日、2日目。
私たちは近くの幼稚園に行った。
2日目はここでボランティアをする予定で、勉強を教えたり、一緒に遊んだりしたりするものだ。
みんな、元気よく、「東京のお兄ちゃん、こんにちはー!」と迎えに来てくれた。
最初は、私たちの活動内容を話していて、そこからは私たちが小学生になった時、必要なことや東京のことやそれ以外の地域についても話した。
そのあと、みんなで食事をしたあと、たくやのお母さんが、実際に被災で親を失なってしまった園児たちのお話しを聞いたり、カウンセリングを行った。
親を失ってしまった園児たちは幼稚園の中でも、それが気になっててずっと隅っこにいたり1人でいたり、思い出してしまい突然泣き出す子もいるらしい。
私は、この様子もフリーペーパーに抑えるためで、一眼レフで写真を撮った。
当時は、一眼レフを使いこなせていなかったので、なんとかブレながらも必死にその様子を撮影した。
園児の様子を見ると、最初は色々愚痴を吐き出すにつれて、
「ママぁぁ。。。。えーーーん!!!!」
と、突然泣き出し始める子もいた。
しかし、だんだんたくやのお母さんと話していくにつれて、その様子は徐々に治まっていた。
まるで、昔のカウンセリングする前の自分と同じだ。
それ以外にも普通に元気の子はいたので、その子たちとは普通に話していた。
言って良いか、わからないが思い切って聞いてみた。
「ねぇねぇ、君たちは今楽しい?」
「楽しいって?」
園児の子が僕に聞いてきた。
「うん、だって、思うように遊べない、勉強できない、そしてサッカーとか野球とか好きなスポーツはできない、それだけじゃない、最初は小学校の避難生活で集団生活で慣れないだろうし、大変じゃないの?」
その質問をしたら、その子はすごく難しい顔をしてしまった。
私は完全にしまったと思い、すぐに謝った。
「あぁーー、なんかごめんね。変な質問して。今のこと忘れてもらっても良い?」
「ううん!今の生活楽しいよ!」
「え、、、?」
「だって、他の僕のお友達は死んだ子もいれば、生きてても遊べない子もいるのに、こうやって僕はちゃんと友達と遊べてて楽しいし、ご飯も食べれるし、先生が毎日勉強を教えてくれるし、確かに当たり前なことだけど、それが最近幸せなんだな、と思うと僕はすごく楽しいと思ったよ。」
「当たり前なことが幸せ、、楽しい、、、」
「そして、僕は大人になったら王様になって、困ってる友達やパパやママを助けて、この街を地震が起きる前に戻すんだ。」
私はその言葉にとても心を揺るがされました。
今まで自分はさんざん、周りに迷惑をかけてそれでもわがままをずっと放ってきて、なんてスケールの小さい人間なんだろうと、少し情けなくなりました。
そこで、子どもたちの逞ましく生きている姿を見て、「自分も負けていられない。」と思いました。
そのあとに
「そうだね、君ならきっと良い王様になれるよ。僕は君を心のそこから応援しているよ。」
「本当に?ありがとう!」
心の中で自分もこういう人たちや頑張りたい人たちの背中を押すような仕事をしたいと決めました。
そして、他のメンバーは何人かまだ滞在していたが、横浜に帰ってきて思った。
帰って、自宅に帰り、家で録音したことや撮った写真をまとめたとき、自分の中の感情が私に強く訴えていた。
「僕も、以前の自分みたいな引きこもってていじめを受け何をして良いかわからない、そして被災地であった孤児みたいに精神的に追いやられてて希望に目を向けられない子たちに、希望の光を当ててあげたい。」
「そういう人たちの背中を押してあげたい。今まで消極的だった僕がここまでこれたのも仲間や周りが支えてきてくれたおかげなんだ。」
「僕も、たくやのお母さんに行き場を失って何をして良いかわからない人を救えるようになる心理カウンセラーになりたい。」
「確かに、自分1人がカウンセラーになって、この世の中の困っている人を救える数なんでたかが知れている。」
「けど、1人だけでも救えるようになる人が世の中に増えたなら、僕はそれで本望だ。」
「もし、あの時私はカウンセラーであるたくやのお母さんと会ってなければ、たくさんの仲間に会えずとっくに自殺してこの世の中を去っていたかもしれない。」
「だから、今度は自分がたくやのお母さんみたいになって、みんなを助ける番だ!!!!」
その日から、私の夢は心理カウンセラーという新たな目標ができました。
「そのためには、心理学を専攻できる大学に入らなきゃだから受験勉強を頑張らなきゃ!」
明確な目標ができ次第、私はそこからがむしゃらに勉強を頑張っていきました。
しかし、ここで心理カウンセラーの大きな現実とギャップに向き合います。
そして、これこそが今の私の活動の源でもあります。
次回、今私がやっているビジネスがなんでやっているかのをお話しできればと思います。